虹のように錆びたナイフ

Nov 05 2008
現実問題として、容姿が平均以下の女の子はどういう心がけで日々過ごしているのでしょうか。

容姿が平均以下の女の子の生きる道を教えてください : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

ブスの25ヶ条」を(こうならないようにという意味で)勧めるといいと思う。時期も、教え方も難しいけれど。

いやなことだけど多分、子供のうちは鬼ごっこをするのに鬼が要るように、いじめをするのにいじめられっ子が要るから、攻撃しやすい特徴を持った人は攻撃されることが多い。いじめの年齢を抜けた若い時期には、今度はごく少ない評価軸での競争意識が強まるから、やはり攻撃しやすい特徴を持った人は攻撃されることが多い。そして攻撃された人は「そういう役割」になりがちだと思う。一度それを飲み込んでしまうと、攻撃した時の反応が「反発」から「消沈」にかわるから、ますます攻撃しやすくなるんだ。

でも社会に出ると、そこでは「足が遅い、でも頭が回る」「考えが浅い、でも馬力がある」のような評価が当たり前で、攻撃しやすい特徴を持ってるぐらいで攻撃されることは少なくなる。評価軸も増えるし、評価する人の方もお互いの長所を活かしあって(露骨にいえば利用しあって)いくことを知っているからだ。むしろ、攻撃する方が白眼視されやすくなる。社会で共通に求められる特徴は、唯一「社会性」だから。それと特に容姿についても書いておくと、これは外観という評価軸の中のさらに小さな評価軸の一つに過ぎなくなる。付き合う相手が、多くの年代や地位の人にまたがっていって、年齢差もファッションの差(趣味の違い+センスの差+かけられる費用の差)なども大きくなってくるから、容姿なんてそのトータルで決まる外観の中のただの一要素だ。

ただ子供から若者の時代に攻撃されてくると、大人になった時にそれが「ブスの25ヶ条」(の20カ条目)までのような形で、傷跡になって残ることが多いような気がする。この25カ条に当てはまる人と話していると、話はネガティブな方向に、他者を攻撃する方向に転がりやすいので、長く一緒にいると辛くなってくる。そして容姿で攻撃されてきた人はそんな時に、容姿が避けられているのだと(なんといっても昔に総攻撃された経験があるのだから)考えてしまうのではないかと思う。不運(運の問題だ、はっきり言って)にも攻撃されて傷を負い、不運にも傷の場所に気付きにくい。でも、もう容姿なんか対して悪く働かない。傷跡が残っているならば、それの方がよほど悪く影響しやすいんだ。

私見だけど、多分そんなことなんじゃないかと思う。「容姿以外で自分が輝けるもの・ことを見つけるのが一番かと思いますが、それはどういう風に見つけましたか?」なんて言ってるけど、外観以外に容姿をカバーしてくれる「一目で伝わる長所」というのはない。目に見えないんだもの。だから、そんなもので容姿をカバーしろと教えるのは違うと思うし、そして人付き合いに容姿かそれに代わるものが必須だなんていうのもファンタジーだと思う。

きっとみんなほんのちょっとした個性の凸凹で引っ掛かって、その相手と並んでいるうちにお互いの間が滑らかになって、ぴったりとくっつくんだ。並んでいることを難しくするような、傷跡をいつまでも残さないこと、残っている間はそれをむやみと見せないこと、そういう「一緒にいるための努力の仕方」を教えてあげるのがいいんじゃないかと思う。

(via tsukamoto)

子供自身が困っているとは書かれていないのだが。””娘は顔や体型・体質が夫に似て、中肉中背、一重です。”” 夫に失望したのか。

(via jun69)

まぁ「容姿」のなかで「顔面の造形」が占める割合ってのがたいして大きくないってのが分かるのが大人になってからだもんな。社会的地位ウンヌンを除外したとしても、服装などの装飾やら表情やらキャラクターが「容姿」の大半だったり(この話をするときはナンバーワンホストや美形芸能人の個性的な造形を引き合いに出せばよい)。

Oct 28 2008

月のワルツ

時計をモチーフにした、ファンタジー的な世界観。ファンタジーというよりは、寧ろ夢みたいな感覚。ダークファンタジーだよね。とっても沈鬱で、幻想的。多分子供がおびえるのも分かる。これは境界を越えて、向こう側へと連れて行ってしまう物語だから。 月を歌う比喩の表現が、とっても素敵だと感じた。月の満ち欠けと、時の諸言無情を重ね合わせている暗喩が映像で素晴らしく表現されている。 やっぱり秀逸なのは、時計の針に向かって女の子が駆け出すシーン。細い針が不安定さやリスキーたる事を象徴してるんだけど、それでもそこで止まらずに、王子様にすべてを投げ出してくるんだよね。ここと「愛することは 信じること」が重なって、凄く説得力のある映像表現に仕上がっている。 でも、ちょっとブラックとも見方によっては受け取れるのが面白い。結局女の子は、眠った夢を見る、で終わってしまうわけだし。これって閉じた世界だなあと思うけど、でもこれでいいのかなあ何て感じるのは、僕が男だからかもね。 信仰と夢は、時に似ているように思える。愛は信仰で、信仰は夢で、夢は幻想で、幻想は、とても、鳥肌が立つくらいに美しいんだよ。

Oct 15 2008

そうだ、うれしいんだ生きる喜び

たとえ胸のキズが痛んでも

なんのために生まれて、なにをして生きるのか?

答えられないなんて、そんなのはイヤだ

今を生きることで、熱い心燃える

だから君は行くんだ微笑んで

そうだ、うれしいんだ生きる喜び

たとえ胸のキズが痛んでも

ああアンパンマン

やさしい君は 行けみんなの夢守るため

(やなせたかし 「アンパンマンのマーチ」)

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人生の楽しみの中で最高のものは、やはり人を喜ばせることでしょう。すべての芸術、すべての文化は人を喜ばせたいということが原点で、喜ばせごっこをしながら原則的には愛別離苦、さよならだけの寂しげな人生をごまかしながら生きているんですね。

(やなせたかし 「人生なんて夢だけど」)

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このあと僕はいったい何をするべきか。何を目標に生きるべきか。

アンパンマンのテーマソングはぼくの作詞だが、幼児アニメーションのテーマソングとしては重い問いかけになっている。ぼくはお子様ランチや、子供だましの甘さを嫌った。

なんのために生まれて

何をして生きるのか

わからないまま終わる

そんなのは いやだ!

何をしていきるのか、自分に問いかける時が来た。

(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

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この読者層に対して、大人はどう対処するのか。甘い赤ちゃん言葉で「かわいいウサちゃん」くらいのところでお茶をにごしていたのではないか。

ぼくは真剣に考えるようになった。そして、自分のメッセージをしっかりと入れることにした。

「正義とは何か。傷つくことなしに正義は行えない」

(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

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ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行えませんし
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宮城まり子の仕事を手伝っているうちに、エンターテイメントのショービジネスの基本は、まず眼の前の客をなんとしてでも喜ばせることだと悟りました。お客さんの喜びの拍手が、自分の喜びになる。

(やなせたかし 「人生なんて夢だけど」)

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逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること。これがアンパンマンの原点となるのだが、まだアンパンマンは影もかたちもない。

(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

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しかし、正義のための戦いなんてどこにもないのだ。

正義は或る日突然逆転する。

正義は信じがたい。

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なんのために生まれて

何をして生きるのか

これはアンパンマンのテーマソングであり、ぼくの人生のテーマソングである。

(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

Oct 12 2008

貨幣に関係性を埋め込むことについては善し悪しがありますね。

かつて、社会学者のジンメルが「貨幣の哲学」で「貨幣は近代精神の最も完全な表現」としたのは、近代が不要とした”つながり”を、貨幣がものの見事に断ち切ったからです。「お金で買えないものなんてあるの?」と言ってのける堀江くんの台詞は現代のお金の特質のことを指しているだけで、彼独自の思想ではありません。

現在「お金はあらゆる価値の表現手段」としてもっとも世界に広まっていることは確かで、お金から完全に断ち切れた別の表現手段が乏しいのが現状です。その点では、PICSYや地域通貨のように現代の貨幣とオルタナティブな通貨価値が広まることに個人的には期待がありますが、PICSYや地域通貨がお金のようになれるかというとかなり悲観的です。

PICSYが広がる可能性が低い理由としては、PICSYのように「関係性を含んだ消費」は「関係性を含まない消費」があることで意味を為す、という考え方がまずあります。地域通貨が補完通貨と呼ばれているのは、元々広がりの限界が見えているためでしょう。PICSYも投資貨幣と限定するならまだ理解は違うかも知れません。

そもそも上記の漫画も一面的過ぎです。もし病気を治した後に、交通事故で死んだら治療内容とは関係なく、治療への対価が下がってしまいます。その上、看護婦さんまでとばっちりくらいます。また、悪徳医師が、悪徳経済家に良い治療をしたとすると、悪徳経済が発展する訳で(笑) 悪い価値観の伝播の方がより促進されそうな気もします。(悪貨は良貨を駆逐しますから)

ま、そもそも人間の消費活動をすべて有意な関係性を含んだものにすることが、個々の人間の幸せに結びつくのかという根本的な問題もあります。そもそも投資って、相互の意志が共通していない場合もありますし、世の中「同情するぐらいなら金よこせ!」って事情も多いですから、支払われる側も支払いの意図を明示されたくないケースも多々あるかと思います。

あと、もうひとつには、関係性の補足範囲が無限に広がっても人間の活動がそこに追いつかないだということです。自分のお金が影響を与える範囲が無制限に広がっても、そこに責任を果たせないなら関係性とは言えません。また、日々の消費がコンビニで完結する人が多い日本では、無意志のお金の量がそもそも多く、PICSYの思想を体現するどころか、貨幣が価値を伝播させることの不可能性を証明することになるやも知れません。

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ツッコミビリティ
言説に対する反論を読者に提示することが容易である性質(上記記事では「物理的ツッコミビリティ」)
トレーサビリティ
言説と言説の発信者に関する情報を関連づけることが容易である性質
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しかし言論というのは、署名を含めてひとつのテクストになる、という厄介な性質がある。そこがエンジニアからは嫌われるところなのですが、人文系はそういう世界でここ数千年動いている。そこでは、作者の固有名が違えば、同じテクストでもまったく違う解釈を生み出すことがありうる*1。つまり、匿名の言論だけを戦わせることで、内容的に正しい言論だけが生き残るというのは、歴史的に見てかなり特殊なジャンルに限られるのです。
Oct 11 2008

実体験に基づく知識の信頼強度はその他で得た知識の信頼強度の3倍程度の傾向があることが統計により明らかになった、とかそんな感じ

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